===== 西南の役 延岡の戦闘 =====

8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促した。しかし敗戦を重ねていた薩軍の大勢を変えるには至らず、8月14日には延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退した。
連敗の薩軍は弾薬も食糧も払底しており、士気の低下を憂慮した西郷は自ら陣頭に立って雌雄を決しようと言い出した程であったが、諸将は未だその時機ではない、と諌めて延岡奪回を企図した。

薩軍は長尾山から無鹿山にかけて拠点を占領、ここで官軍に打撃を与え、頃合を見て一挙に延岡を奪還する作戦であった。
8月15日 薩軍は攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れた。戦況は一進一退のうちに、午後になるとさしもの薩軍も態勢は崩れ始め長尾山から熊田に敗退するの止む無きに至った。
官軍は三方から北川の渓谷長井村に薩摩軍を追い詰め、袋の鼠となった薩軍は夜にかけて一部で延岡に進撃を図ったが、かえって官軍の反撃を浴びて中には降伏する部隊も現れた。
西郷は「我軍の窮迫此処に至る。この際諸隊にして降らんとする者は降り、死せんとする者は死し」と布告、自らは陸軍大将の制服をはじめ重要書類を焼却、負傷した長男菊次郎には従者を付けて降伏するように指示した。
このいわば「解散令」によって、熊本隊の600人を筆頭に九州各地から馳せ参じた諸隊は相次いで官軍に降伏、一部は西郷に決別を告げて自刃した。


後退を決意した薩軍主力は3隊に分かれ、断崖を這うようにして可愛岳南岸の崖下を6時間かけて西進した。
包囲警戒していた官軍もその方面の警戒は不十分であった。薩軍は集結すると歓声をあげ、一挙に官軍本営に突入した。
第1旅団(野津鎮雄少将)、第2旅団(三好重臣少将)合同の出張本営は不意を衝かれて大混乱に陥り、その付近にあった食糧、弾薬多数は薩軍の手中に落ちた。
敵中から可愛岳を突破し一矢報いた薩軍は、岩戸、三田井と転じ、熊本に向かおうと主張した桐野の意見を退け軍を南に下った。
地理に明るく身軽になった薩軍は九州山脈の山中に分散した官軍の虚を衝きながら南下を続け、9月1日には同地警備の新撰旅団を破って鹿児島市内に進出した。
さらに本隊が到着する前に米倉にあった官軍残存部隊を撃退しようと、決死隊による夜襲を決行したが、貴島清ら有力な将兵を失う結果となり、大規模な出撃はこれが最後となった。

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